PASSPO☆を全力で応援したい

PASSPO☆が好きになった。

この1週間くらいで急激にハマったにわかファンではあるのだが、とにかく今のPASSPO☆を応援したくてたまらなくなって、この文章を書いている。

 

アイドルファンとしての僕は、いわばライトな楽曲派。2011年にももクロとBiSをきっかけにしてアイドルポップスもよく聞くようになったが、足繁く現場に通う訳ではなく、録音物や映像でアイドルポップスを消費してきた。ぱすぽというアイドル自体は「少女飛行」が1位を取ったころから知ってはいた。アイドルフェスの中継なんかでライブ映像を見ることもあった。ロック寄りの楽曲をやっているのも分かってはいたのだけど、パフォーマンスを見てハマることはなかった。申し訳ないけど。

 

が、こないだSpotifyでアイドルポップスを漁っていて、改めてPASSPO☆の楽曲をちゃんと聞いてみた。”Honey dish”という曲が好みだな、メインボーカルの声が好みだな、というのをとっかかりに他の曲を遡って聞いているうちに、好きになっていた。好きになると勢いがついて、Wikipediaでこれまでの歴史やメンバーのことを調べた。2年前に重要メンバーの卒業という節目があったことや、バンド体制での活動も始めていることも知り、Youtubeも見まくった。

 

知れば知るほど、見れば見るほど、「今の」PASSPO☆を応援したくなってしまう。結果、こんな余計な文章も書いてしまう有様だ。

 

1. BAND PASSPO☆という生々しい可能性

「アイドルがバンド体制でも活動」と聞いて、とりあえず「そういう体でちょっと目先を変えてみたってやつね」と思うわけだ。

 

バンド演奏初お披露目イベントの映像がある。2014年のもの。演奏シーンは5分くらいから始まる。


PASSPO☆ 3.24ドキュメント

 

まず驚きなのが、ガチで演奏しているじゃないか、と。そして、それがまた下手じゃないか!と。
いや、このレベルの演奏にも、それなりの練習が必要なのは理解してますが。人様に見せる演奏としては、正直、対象に思い入れのある人じゃないと楽しめない、発表会レベルのものではある。つまりは余興。普通はこれを活動の軸に置こうとは思わないだろう。

ところが。


BAND PASSPO☆ - WANTED!!

ガチ演奏でイベントに出演して、オーディエンスを盛り上げるレベルまで達してしまうのだな。

もちろんまだ下手だ。でもその未完成ささえも、今のBAND PASSPO☆にとっては魅力。
昨今、ルックスがよくて演奏力のあるギャルバンなんてたくさんある。でもBAND PASSPO☆は、「アイドルが、アイドルである事を捨てずに、必死でバンドでもあろうとする様」を、生々しい現在進行形の可能性として見せてくれる。

クールビューティなドラム&ツインテールベースのリズム隊の安定感。パワフルなメインボーカル森詩織は当然素晴らしい。のだが、ともすればアイドルを忘れて「普通のギャルバン」なムーブに行きがち、なところを、絶妙な存在感でアイドルらしさを失わず、バンドと森詩織とオーデイエンスをつなぐ「タンバリン担当」なちゅ。
反面、ギター部隊は棒立ちで俯きがちだし、グループいちばんのアイドル性があるはずのキーボードはバンド体制ではいまいち目立ち方が見えてない、とか、ツッコミどころは色々ある。
でも、元より楽曲がよくて、演奏を支えるリズム隊とボーカルも良いので、楽しめる演奏にはなっているし、後は「成長の過程」と思えば「足りないあれこれ」は伸びしろにしか感じられない。
「今、足りない」ことよりも、「今この瞬間の過程」を見られる事の幸福を感じてしまう。

そして、それは、アイドルグループがもたらしうる最高のエンターテインメントだと思うのだ。

 

2. (本来の)ボーカル&ダンスグループとして完成度

 

そして、ボーカル&ダンスを基調にしたアイドルグループとしてのPASSPO☆の完成度が、素晴らしい。ファンからすると何を今更、なのだろうけど。

 

明るくキュートな曲調と裏腹に、スキルを見せつけるかのように極狭な場所でのフォーメーションチェンジを繰り返したりとか


PASSPO☆「Mr.Wednesday」ダンスショットver

 

まぁとにかく振り付けと表現力が素晴らしかったりとか


PlayGround ダンスショット

 

3. PASSPO☆というグループ自体が持つ物語性

 

そして、今ここ、そしてこれからのPASSPO☆というグループ自体が持つ物語性。

正直、これはずっとグループを追ってきた人が語るべきだし語っているだろうしむしろ語るのも野暮、な気もするけど。あえて。

2015年にグループの顔というべき人を含むメンバーの卒業、シングルリリースのない期間、レーベル移籍を経てのRe:デビュー。
そこにかける想いの本当の質量は、にわかファンにはわからないけれど…

改めての自己紹介ソングのサビに「何度も立ち上がれ」「あたしらは不死身なんだ」という歌詞を入れて、タイトルを”7s up”と名付け、誰一人欠けない覚悟を見せるほどには、ドラマチックだったのだろうし期するものがあったのだろう、と想像する。


PASSPO☆「7's Up」リリックビデオ

そんな物語性とかわいい女の子の必死さを見たら、それはやっぱり感情移入したくなるし応援したくもなるってものだ。
(個々人がアイドル然としておらず各人各様の隙があって、それがまたがんばれベアーズみたいで楽しかったりもする)

 

ともあれ、うだうだ書き連ねてきた事はさておき、楽曲の素晴らしさ、ボーカルの魅力、移籍してさらに格好良くなったサウンドプロダクション、という理屈抜きの魅力はあって。
さらに、パフォーマンスの完成度、BAND PASSPO☆という複層的な魅力、グループとしての物語性が加わったPASSPO☆には、もう全開のポテンシャルと可能性しかないと思うのだ。

 

そんな訳で、全力で今のPASSPO☆に賭けたい、応援したい、と思う訳であります。

 

アイテム課金の終わりのはじまり? ("Pay once and Play" について)

iTunesのアプリストアに「買い切り」型ゲームのみを紹介するセクションができた、というニュース。

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Touch arcadeのコメント欄は総じて歓迎ムード。まぁ、IAP hatersがここぞと書き込んでいるだけかもしれないけど。

個人的にはけっこう大事なアクションだと感じている。


ゲームアプリのアイテム課金には、未成年が保護者の承認なしに購入をしてしまったり、成年でもゲームにハマってしまって高額を費やしてしまったり、と各国で問題になっているのは周知の通り。
社会問題化している側面もあるのだが、一概に止めましょう、ともならないのが現状。

 

■ゲームを開発・販売するメーカー目線
現状、「無料アプリ+アイテム課金」方式で、一部のコアプレイヤーが行う高額課金に売上のかなりの部分を依存しているのが現状。
いきなりビジネスモデルを転換するのが難しい。

 

■流通を握っているプラットフォーム側の目線
プラットフォーマーとしてはゲームメーカーの売上を守る義理はないのだが、Apple vs Googleという図式の中、ゲームメーカーに逃げられるのは困る。
とはいえ、行政からのクレームも強くなる一方だし、何かしら対策は行いたい

 

という状態の中、今回Appleが出したメッセージ"Pay Once & Play"は、今後の動きに大きな影響を与える可能性もある。

文字面としては「一回払ったら後は自由に遊べるよ」という事なのだが、言外には当然「アイテム課金しなくても」という文脈ありきのメッセージであり、アイテム課金アプリの印象は、相対的に悪くなる。どの程度かは分からないけど。

 

個人的には、
1. 無料
2. 有料払いきり
3. 定期サブスクリプション(月額制とか)
という辺りに収斂するのが望ましいとは思うのだけど、どうなるかは分からない。

 

Googleがどう動くか
APPLEがさらに強いメッセージを出すか(例えば、アプリ内課金の有無でランキングを分けたり)
・今回のバナーにより、掲載アプリの売上にどの程度影響があるか
といった辺りでいかようにもなりうるかな、と。
展開によっては、今回のアクションが、アイテム課金依存ゲームの終わりのはじまりになるかも。

 

少なくとも、特に日本式の「じゃぶじゃぶ課金」に売上を依存していると、大きいリスク要因になっている気はする。

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本当は、
4. 「天井知らずのじゃぶじゃぶ課金」にならない歯止めの効いたアイテム課金
というのもあるべき。比較的良心的な追加シナリオの類はこれになるからなー。
ただ、アプリ審査である程度自動的に判別できるものじゃないと、最終的にレギュレーションにもなりにくいだろうし。
分かりやすいルールにするとしたら、「消耗品かどうか」という線引きかな…?

 

我が子が生き抜く世界の未来に絶望しそうになった時に/椎名林檎「孤独のあかつき」(親目線)

子を持つ親としての使命は、突き詰めれば

・世界の広さと、未来の可能性に気づかせてあげる
・たくましく生き抜いていける自己肯定感をはぐくむ

の2つだ。あとは子ども自身が切り開いて生き抜き選んでいくものだ、と思っている。
あくまで個人的な想いでしかないけれど。

と同時に、裏腹に、世の中の・日本の・世界の生きづらさや醜悪さを目の当たりにする度に、この世界が彼/彼女を押しつぶしてしまわないだろうか、という心配は尽きない。
この世界は、彼/彼女が生きるに値する世界なのだろうか、と。

 

 ♪


椎名林檎の「孤独のあかつき」という曲が大好きだ。

アルバム「日出処」にも収録されてはいるのだが、リアレンジ&英語詞になっている。これはこれで素晴らしいのだけど、おすすめしたいのは「いろはにほへと/孤独のあかつき」両A面シングルとしてリリースされたバージョン。

 

歌詞は珍しく林檎嬢ではなく「カーネーション」脚本の渡辺あや

で、この歌詞が…素晴らしい。
いろんな読み方はできるけど、幼児の親としては、親目線で聞いてしまう。
子どもに対する想いが、純化された言葉として結晶されている。

愛情に溺れることなく、厳しさも感じる目線。
椎名林檎のボーカルの素晴らしさも相まって、風の吹きすさぶ荒野に、静かに力強く立ちながら愛情をもって子を見守っているかのような情感を感じる。

 

程よい距離感を持った子どもへの歌といえば、奥田民生の「息子」を思い出す。


想いのベクトルは似通っているが、「孤独のあかつき」は照れずに研ぎ澄ました言葉で歌われる分、詞曲が刺さってくる。


子は可愛い。親バカという名の魔法がかかっているから、何がどうあれ可愛い。
その生命は、その姿は、その成長は日々輝いて見える。

しかし、想いをやがて彼/彼女がいずれ飛び出していく世界に向けると、そこは厳しく、時に醜悪で、絶望すら覚える場所だ。
子を案じる気持ちは果てしなくあるけれど、子を親として護ってあげられる時間はそう長くはないことも知っている。

そして愛情を注ぐ子自身も、いずれ自身の中に決して清らかとは言えない想いや欲望を育む時が来る。そのことは、親は自分の体験として知っている。
そして、人としての定めに従い、いつかは死ぬ。
それでも、やっぱり、君の生命は尊いものだし、美しい。そんな君を愛している。

 

というような想いを、「孤独のあかつき」を聴いて何度も再確認した気がする。
それはやっぱり、親として、個人として日々生きていく中で、世の中にうんざりすることが多々あるわけで。
子どもの未来を考えると悪い予想しかできなかったりすることもあるわけで。
そんな時、この曲を聴いて、強く優しい親としての佇まいを自分にインストールしなおして、頑張っていっている。という訳です。 

サカナクション「ミュージック」

子供の頃(と言っても、中学生や高校生の頃)、部屋で音楽を聞きながら、ひとりで踊り狂う、という体験は、かなりの人が経験済の照れ恥ずかしい体験じゃなかろうか。
残念ながら、しっかりとグレることもできず、日々沸き起こる衝動を持て余していた僕は、ひとりの部屋でロックを聴いて踊るくらいしかできることはなかった。
でも、それがあったから、決定的に道を踏み外さずに済んだとも思う。当時の自分に音楽がなければどうなってたかなんて想像すらできないししたくない。

もうひとつ、当時の僕には大事な時間があって、それは夜中に外をうろつき歩く、というものだった。
家庭での抑圧、学校にも馴染めず、友達らしい友達もおらず、ひとりで悶々としていた。
夜中に、何をどうするアテもなく、ただ何かがある気がして、足を潜めてこっそり玄関を出て、誰もいない真夜中の住宅街を、ひとりでほっつき歩いていた。
今思うと、いろいろな鬱屈で訳が分からなくなっていた自分が、自分自身であろうとする、ささやかな抵抗のようなものだったのかもしれない。ともかく、当時の自分にはそれがとても大事な時間だったし、今思い出してもそれは他の何にも例えられない時間だったと思う。

サカナクションの「ミュージック」を聴いて、そんな感覚を鮮明に思い出した。
月明かり、誰もいない住宅街。ほとんどの家の明かりは消え、いくつか点いている部屋の灯りが、わずかに人の気配を感じさせる。通り沿いの街頭が、仄かな明るさと薄暗さの繰り返しを作っている。そんな夜の匂い。
 

何も言わない
言わない街は静かに
それを聴いていたんだ
弱い僕と同じだろうか

痛みや傷や嘘に慣れた僕らの言葉は
疲れた川面 浮かび流れ
君が住む街で

消えた

誰しも通るナイーブな季節、でもそれをナイーブという言葉だけでは片付けられない心の暗闇。「ミュージック」は、それをそっと照らしつつ、でも静かに、ゆっくりと、やがて力強く、肯定感で包み込んでみせる。

振り返った季節に立って
思い出せなくて嫌になって
流れ流れてた鳥だって
街で鳴いてたろ
鳴いてたろ

いつだって僕らを待ってる
疲れた痛みや傷だって
変わらないままの夜だって
歌い続けるよ
続けるよ

この曲に「ミュージック」というタイトルが冠せられるという事は、少なからず山口一郎やサカナクションにとって、音楽とはそういうものであったのだろうし、それは今でも大事な音楽の存在理由なのだろうと思う。

僕が中高生当時に部屋で聴き踊り狂っていたのは、いわゆるハードロックやロックンロールとカテゴライズしていいものだったが、今となっては、そういう「激しい」音楽ジャンル(メロコアとかその辺も含めて)では救いきれないものが残らざるを得ない気がする。そこに音響性とビートとメロディーを併せ持ったサカナクションが現れたのは、とても幸福だと思うし、サカナクションを切実に必要とする不幸、というのも時代的な複雑さを反映しているのかな、とも思う。

ロック・ミュージックの持つ快楽性と、孤独な夜の匂いとを、同時に併せ持って、且つそれらをマジックによって肯定感に昇華してみせるこのワザは、確かに間違いなく音楽そのものだし、孤独な夜から過ぎ去っているはずの僕にも今なお感動的に響く、大事な曲になった。

そして、今夜も、たくさんの鬱屈した青少年の部屋で彼らを踊らせているのは、サカナクションなんだろうなと思う。